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グリニー、多層的な誘い

 

リヨンからローヌ川に沿って約20キロ南郊外に位置するアルボラスに1829年に創業した陶器窯は、1837年には近隣のグリニーに第2の窯を開き、その後も様々な変遷を経ながら、1960年代まで作陶を続けました。

ローヌ川のふもとに位置し、良質な水源に恵まれていることに加え、フランス革命後、リヨンからサンテティエンヌへと鉄道が走ったことで製品輸送における利便性を得たことが、窯設立において同地が選ばれた理由でした。

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最大4か所の窯を時代毎に稼働させ、種類の違う陶器、及び磁器を生産。窯毎に製陶体制は異なり、経営形態の変遷もあるため呼称の統一は難しいですが、1800年代初期のファイアンスフィーヌ作陶においては「アルボラス」を、中期から後期にかけてのテールドフェール(半陶半磁器)作陶においては、アルボラスに加えて「グリニー」を、クープランでは適宜使い分けています。より広義に捉えるなら「ローヌの陶磁器窯」という総称もあり得るでしょう。

※因みに現在の行政区分では、アルボラスはグリニー市の一地区(Quartier)という位置付け。

 


 

前口上が長くなりましたが、クレイユ、シャンティイに倣ったような、1800年代最初期の繊細優美なアルボラスのファイアンスフィーヌ、それもまた捨て難いですが、1800年代中期から後期にかけて、より具体的にはアルボラス第2の窯をモット家一族が「グリニー」として稼働させて以降の作陶品からは、一層の独自性を感じます。

デュロー・モット経営時代(DUREAULT, MOTTE & Cie)、1840〜70年代の後期頃に独自の方向性は定まり、作陶のピークはタルディ・モット経営時代(TARDY, MOTTE & Cie)、1882年以降(1900年頃まで?)と考えています。

先ず目を惹くのは、モデリングにおけるエレガントさです。曲線を生かした、上品なクラシックはボルドー窯のそれと近しく、殊に輪花の器形は白眉です。

また実直で安定感あるテールドフェールの作陶がフランス全土で最盛期を迎えていたなかで、年代を読み間違うような、どこか不安定で儚げな雰囲気の釉調を纏った品を多く手掛けました。テールドフェール作陶としては辺境の地で、腐心の末に生まれたであろう固有のマチエールと言えそうですが、1800年代末期でありながら、数十年前には一度廃れていたファイアンスフィーヌ(或いは最初期テールドフェール)を復古させたような陶器も存在するため、一概に括ることはできず、そこには別の思惑も垣間見えます。

加えて釉質と素地の柔らかさ故か、経年により痂せて個性的な風合いを帯びることがしばしばあり、それが抜群の豊かな古色を醸し出します。

削剥したリム縁や使い込み傷ついた見込み。前述したファイアンスフィーヌの本歌に見られる事象ですが、それがテールドフェール的な作陶品において明瞭と現れていることに特殊性があります。それ自体は当時意図したものでは恐らくありませんが、同時代の他窯にはあまり見らない固有の事象は、グリニーのアイデンティティを探るうえでのヒントにもなり得るでしょう。

資料が乏しく、現状掲示できる「事実」はごく僅かなため、推測に一定想像を加えて筆を進めています。ですが触れ眺めてきたリアルな物々の強度を頼りに、時代背景も鑑みながら見定めようと試みたとき、作陶への知的好奇心と実践的な探求が、窯の歴史の通底には絶えず存在していたことを感じずにはいられません。

古き時代への思慕や憧憬さえ残っていた、とまで考えるのは個人的な願望も多分に含みますが、表層の質の良さや古色の美観に留まらず、深層には、窯業へ携わった者たちの工芸への向き合い方が潜むグリニーの器々、その多層的な魅力はやはり唯一無二だと思います。

 


 

Ravier, Assiette Epaisse et Plat Carré
Grigny Tardy Motte et Cie vers 1882 – 1900

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