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Description / Entreprise

Creil, Montereau / クレイユ 、モントロー 窯刻印

パリの北郊外に位置するクレイユ、南郊外に位置するモントロー、及び双方が1840年に合併してできたクレイユエモントロー。革命後のフランスで、19世紀を通じて製陶文化を牽引し続けた窯の刻印記録。一次情報の経験に加え、二次情報として複数の書籍を参考にしながら記述しておりますが、クープランとしての現時点での見解となります。あくまで参考程度に御覧ください。

 


 

Creil / クレイユ 窯印

Creil
ジャック・バグナル経営時代
(オーナー: サン・クリーク・カゾー)
1806 – 1834年頃

Creil
ジャック・バグナル経営時代
(オーナー: サン・クリーク・カゾー)
1806 – 1834年頃

Creil
サン・クリーク・カゾー
オーナー兼、経営参与時代
1834 – 40年頃

Creil
サン・クリーク・カゾー
オーナー兼、経営参与時代
1834 – 40年頃

Creil
サン・クリーク・カゾー
オーナー兼、経営参与時代
1834 – 40年頃

 


 

Montereau / モントロー 窯印

Montereau
ホール夫妻経営時代
1819年頃まで
(1820年以降も使用?)

Montereau
ホール夫妻経営時代
1819年頃まで
(1820年以降も使用?)

Montereau
ホール夫妻経営時代
1819年頃まで
(1820年以降も使用?)

Montereau
ルイ・ルブッフ&ティボー経営時代
(サン・クリーク・カゾー 窯購入後)
1820年代頃

Montereau
ルイ・ルブッフ経営時代
(サン・クリーク・カゾー 窯購入後)
1834 -40年代頃

 


 

Creil et Montereau / クレイユエモントロー 窯印

Creil et Montereau
ルブッフ・ミリエ社 初期
1840年代頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社 初期
1840年代頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社 初期
1844 – 1849年頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社 初期
1844 – 1867年頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社 中期
1849 – 1867年頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社 中期
1849 – 1867年頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社 中〜後期
1867 – 1876年頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社 中〜後期
1868 – 1876年頃

Leboeuf Milliet & Cie
ルブッフ・ミリエ社
1841 – 1876年頃

Barluet & Cie
バルリュエ社
1876 – 1884年頃

Barluet & Cie
バルリュエ社
1876 – 1884年頃

Société Anonyme
共同代表制時代
1884年 –  1920年頃

Société Anonyme
共同代表制時代
1884年 –  1920年頃

Société Anonyme
共同代表制時代
1884年 –  1920年頃

Société Anonyme
共同代表制時代
1888年 –

Série Labrador
ラブラドール・シリーズ専用印
1892 – 1920年頃?

クレイユ閉窯後
モントロー窯単独稼働時代
及び、HBCM社時代
1895年 – 1900年代半ば

HBCM
イポリット・ブーランジェ・クレイユ・モントロー
1920年 – 1955年

 


 

Creil / クレイユ窯

1797年、パリの北に位置する郊外の街クレイユに、アイルランド出身のパリの実業家ロバート・ブライ・オライリー (Robert Bray O’Reilly) なる人物が、クリスタルのガラス製造から事業の変更をするかたちで開いた陶器窯。1802年、隣町シャンティーの窯のディレクターであった英国人ジャック・バグナル(バニャル)が、能力の高い労働者や職人を引き連れて転籍。窯経営に参画し、英国風の上質陶器製陶を開始したことで、クレイユは急速に発展していきました。

18世紀末から19世紀初期にかけて、フランスで独自発展した英国風上質陶器は「ファイアンスフィーヌ」と後世に呼ばれることになりますが、当時のファイアンスフィーヌ製陶文化においてクレイユ窯は中核を為しました。

単独のクレイユとしての作陶品は1800年代半ば頃まで存在。1819年にクレイユの所有者、サン・クリーク・カゾーがモントロー窯を買収、やがて2つは完全に合併をし、クレイユエモントロー社となります。クレイユエモントローは、ファイアンスフィーヌから、より量産可能なテールドフェール製陶へとシフトし、引き続き19世紀末まで、フランスの陶磁器生産を牽引していきます。

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Montereau / モントロー窯

パリ南東の郊外外れ、セーヌ川とヨンヌ川の合流点に位置する歴史ある街、モントロー=フォール=ヨンヌにかつて存在した陶器窯。

1720〜40年頃まで村に存在した小さな工場で、1745年頃より英国風陶器製陶を開始し、1749年に大規模な窯を設置したのが歴史の始まりです。

最初期に製陶していた英国風陶器はフランス国王により生産を禁止され、作品も全て国王に献上するという憂き目にあいますが、技術開発を続けたモントローは、フランス独自の美しい陶器「ファイアンスフィーヌ」を、1830年代頃まで製陶し続けました。

1774年以降、イギリス人の経営者による発展が顕著で、特に1796年〜1805年の間、当時のフランス陶磁器界における名経営者、イギリス人クリストフ・ポッター(Christophe Potter)の時代に、プロト工業化(機会工業化に先立つかたちで進行した、手工業生産の拡大)を行うことで、大きく進歩しました。ポッター後は、同英国人のホール夫妻により経営が続けられました。1774〜1819年頃のあいだが単独のモントロー窯としては最盛期と呼べると思います。

その後、1819年にモントローの窯は、クレイユ窯の所有者でもあったサン・クリーク・カゾーに譲渡され、クレイユエモントローとなり、その歴史を続けていくことになります。

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Creil et Montereau / クレイユ エ モントロー

1796年に開窯したクレイユと、1700年代前半から製陶を続けていたモントローが、1840年に合併してできたのが陶器会社クレイユエモントロー。1920年にはショワジールロワと合併し、社名をHBCM (Hyppolyte-Boulanger Creil Montereau) と変更し、1955年まで作陶が続けられました。

主なマテリアルは当時の主流であったテールドフェール(半陶半磁器)。
パリのブルジョワジーを顧客に、当時のフランス製陶文化を牽引しました。

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記事はアンティーク陶器を通じた経験と複数の書籍を参考に、でき得る限りの事実確認を行った上で
作成していますが、あくまでクープランによる一見解としてお読みいただけますと幸いです。

 

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