Old European Cutlery

中世・近世西欧カトラリーについての所感と覚書

 

国が変わり、時代も変わり。見ていた景色や世界の文節の仕方がどれだけ違っても、生きるために食べるという行為に変わりはありません。

世界が在り続けてきたという事実を、柔らかく、けれど強固に伝えてくれるから古物に惹かれ、「かつて生きた人の手」の確かさが、自分にとってのやさしい結節点です。古代から用いられてきたスプーンは、その役割からして人間のもっとも近い距離に位置し、肌に触れ、粘膜にすら届きます。宗教や美術のような大きな題目ではなく、市井の人々による生活の反復が主語だったからこそ、物語は身体感覚に直結して訴えかけてきます。

現実には、私たちが手にとり、集め、比べられる中世から近世初期に至るまでのヨーロッパの道具には制約も少なくありません。そのなかでは卑金属製のカトラリーは、ある程度入手が叶い、時代や地域を横断して観察できますが、一方で木や銀など素材によっては容易に手にできないものも多いという留保も必要です

それでも本質的な問いは立てられるでしょう。

これ迄、中世末期から近世初期ヨーロッパの社会史や生活史について、ゆっくりと学んできました。いまだに浅学です。けれど少しづつ事実を積み重ねてきて、古き食卓道具が、過去に架かる橋になる感覚が掴めるようになりました。

今とは異なる規範で洗練された時代の嗜み——現代語では掬いとれない思念や感情、論理によって支えられた世界の在り方に、すこしでも想像的な共感を寄せられているでしょうか。毎日の具体を示す実体としての古物が眼前にあることで、歴史は紙面に留まることなく、モノクロだった絵に色が差し、温度を帯びた「場面」として登場人物が動き出すかのように、世界の連続性を一層確かなものとして捉え直せます。

人間という存在は、興味深く愛おしい。違いに触れることは変わらなさに触れることでもあり、人の愚かさ、ひいては自分自身の矮小さに安堵した部分もきっとあります。換言すればたったそれだけのことですが、そんなささやかな時間を、小さなカトラリーたちは届けてくれます。

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