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FAIENCERIE FILE
No.1:Choisy le Roi

Faïencerie File No.1:Choisy le Roi
ファイアンスリーファイル No.1:ショワジールロワ


 

18〜19世紀にかけてフランスに勃興した大小様々な陶磁器窯。

ごく有名な場合を除けば日本語の資料も乏しく、普段はなかなか詳細に語られることの少ない、そんな窯の出自や生産背景をまとめ、クープランのサイトにアーカイブ化する試みをしてみようと思います。

初回はパリ近郊で19世紀に栄えた「ショワジー ル ロワ」のささやかな年代記です。

 

小序

パリの骨董屋で、南仏のマーケットで、珍しさに惹かれて手に取りこそしても、クープランとして仕入れるかどうかの1番の基準は時代性や希少価値にはありません。例えば、プレーンな白釉皿を主に扱い、時代や窯毎の固有性が現れやすくても、華美な絵皿や装飾品は厳選した紹介に留めていたり。

買い付けのときに頭の片隅に置いているのは、日本の食卓やリビングというごく日常のイメージです。

けれど触れ、調べ、知っていく程に、実用性を越えてモノの魅力がぐっと芳醇で深みあるものになる。
そんなアンティークならではの愉しみも、常に大切にしていたい。

アンティークに纏う空気感は、背景にある文化の蓄積こそが作り出しています。

長い時を経てきたアンティークが昔を知る頼りになり、そうして知った昔は、今をきっとほんの少し豊かなものにしてくれる。日々日常の暮らしのなかで軽やかアンティークと付き合っていただきながらも、ふとした瞬間、古いヨーロッパの歴史への知的好奇心の芽が膨らんだときに訪れてもらえたらという想いを込めて、この記事を綴ります。

 


 

Choisy Le Roi (ショワジー ル ロワ)

時代: 1804 – 1938 (1955)
立地: ショワジー ル ロワ (イル=ド=フランス地域圏、ヴァル=ド=マルヌ県)
呼称: ショワジー ル ロワ (総称)
社名: H.ブーランジェ社 (1878年-)、HBCM社 (Hiperolyte Boulanger-Creil-Montereau、1920年-)

開窯者: パイヤール3兄弟
主要な経営者: イポリット・ブーランジェ (Hippolyte Boulenger, 1836-1892)

 

19世紀初期 | 窯の勃興

市民革命を経た1804年のフランスの、パリから南東に10km程離れた郊外に位置する工業地域圏 ショワジールロワで、パイヤール3兄弟により作陶が始められ、翌年にかつての王室所有だった土地を購入しそれを本格化させるようになったことが、ショワジールロワの起こりです。

そこから遡ること3、4年前。

1800年頃に、パイヤール兄弟は著名な磁器窯シャンティイを、当時の窯の所有者であったイギリス人経営家クリストフ・ポッターから買い取っていたのですが、直後の1802年、シャンティイでポッターの部下の筆頭として活躍していた同じくイギリス人、ジャック・バグナルがディレクターとして陶器窯、クレイユへと転籍。かつその際にシャンティーの能力の高い労働者、職人も全てクレイユへ引き連れて行ってしまいました。*1

この時代の陶磁器窯の背景を調べているとしばしば出くわす、まさに経営者や労働者の玉突き事故ですが、その中でも規模の大きなものの1つだと思います。

クレイユとシャンティーは距離的にも目と鼻の先の為、労働者の確保ができなかったのでしょう。これによりシャンティイ窯の運営は立ちいかななくなると判断した兄弟が、新たに経営の基盤に選んだ土地、それが「ショワジールロワ」でした。*2

 

1780年代にショワジールロワの地に小規模の陶磁器窯が作られたことを示す資料が残っています。兄弟がこの地を選んだ背景には、前述した窯から主となる労働者の確保ができ、またそれでいて比較的パリ近郊であったからであろうということが推測できます。

こうして無事に作陶環境を整えた兄弟は、前述したポッターの援助もあり、当時最新の技術だった「銅板転写」の陶器製造を行うことで、開窯初期の経営基盤を作りました。

この時代の作陶品は決して多くはありませんが、そんな中でもクレイユやモントローといった窯の影響を感じさせるファイアンスフィーヌの器は、器の量産体制が少しづつ整ってきた時代性の生む実直さと、前時代的な貴族的な佇まいが同居し、ごく魅力的です。

 

*1.クリストフ・ポッター: 政治家、陶磁器窯の経営者。シャンティーやモントローといった著名な窯の経営に関わり、フランスの陶磁器界に軟質磁器、ファイアンス・フィーヌ(上質陶器)、銅板転写といった革新的な技術を取り入れた中心人物。フランスのバサルト・ウェッジウッドとも呼ばれ、当時のフランス陶磁器界でもっとも重要とされる人物の1人です。

*2.シャンティーはバグナル転籍後は陶磁器の歴史の表舞台からは姿を消すことになります。同窯の品は1800年代初期までの作陶ということもあり、アンティーク市場でもとても希少です。

 


 

19世紀半ば〜末期 | 窯の躍進

窯が急成長を遂げたのは19世紀後半のイポリット・ブーランジェの時代です。

開窯者である3兄弟のうちの1人、バランタン・パイヤールに誘われるかたちで1824年に経営に参画した、クレイユで働いていたイポリット・ウータン、そのウータンに誘われるかたちで1836年に経営に参画したルイ・ブーランジェ。窯は前述の2人の家系の後継者により経営が続けられますが、イポリット・ブーランジェもその1人でした。

1863年、彼は工場のディレクターとなり、そして1878年には社名をH.ブーランジェ社 (H.Boulenger&Cie)とします。

現在アンティーク市場で見つけることができるのも、主には比較的量産での作陶が可能になったこの時代、1800年代半ばから閉窯する1900年代前半頃のものです。

1889年には、パリに本社を移設、直営店舗も構えました。後述する、当時開業予定だったパリ、メトロの駅の壁面に貼る陶器タイルの2/3の生産、という大事業を請け負ったのも同年でした。

 

ChoisyleRoi_atelier_paris

パリ、パラディ通り18番にかつてあった
H.ブーランジェ社の直営のアトリエ (店舗)

 

ChoisyleRoi_1900

1900年代前後頃の
ショワジールロワ陶器工場の入り口

 


 

20世紀初期 | 窯の終焉

イポリット・ブーランジェの死後は、彼の2人の息子により会社は後継されました。1920年には、クレイユ工場の火災による閉鎖で経営が困難になっていたクレイユ エ モントローと、同窯のモントロー工場を買収するかたちで合併。HBCM (Hiperolyte Boulanger-Creil-Montereau) 社となり、作陶が続けられました。前述したパリ、メトロの駅の壁面タイルの生産を最大の仕事に、窯は経営規模としては最盛期を迎えます。*3

しかしそれが窯としては最後の盛り上がりでした。

合併から程なくした1934年、労働者のストライキに合うかたちでショワジールロワ工場は閉鎖することになり、同地での作陶は終わりを迎えることになります。HBCM社としては、その後は合併先のモントロー工場で作陶が続けられましたが、1955年、それも閉鎖。約250年に渡り紡がれてきた作陶の歴史は途絶えることになりました。

 

*3.クレイユ エ モントロー: 1840年に、それぞれ単独で存在していた陶器窯、クレイユとモントローが合併して誕生。19世紀後半のフランスを代表する陶器会社。

 


 

ショワジールロワの、特に19世紀に単独窯としての作陶された品には、同国の産業革命と並行して窯が隆盛を極めたことを示すプロダクトとしてのブルジョワジー的な堅実な装いのなかに、フランスの中心地に窯を構えていたからこそでしょうか、どこか前時代、18世紀的な貴族趣味も見え隠れし、当代ならではの時の移ろいが強く感じられます。

あるいは俯瞰して眺めてみると、同じくパリ周辺という立地に位置し、かつ当時としてはより老舗にあたるクレイユやモントロー (あるいは合併後のクレイユ エ モントロー) の影響を強く受けていることも見て取れます。

パリという地は、作陶品の雰囲気を特徴付けると共に、アイデンティティーでもあったことが想像できます。

18〜19世紀にかけて勃興した大小様々な陶磁器窯が、フランスの産業革命の波の中で合併・淘汰をされ、2つの大戦を経てさらにその数を減らすことになりました。ショワジールロワもその情勢のなかに否応なく絡みとられた存在の1つではありますが、フランスの中心地で、一定以上の規模の作陶を19世紀中続けた、クレイユ、モントローと並び希少な陶器窯です。

 


 

記事はアンティーク陶器を通じた経験と複数の書籍を参考に、でき得る限りの事実確認を行った上で
作成していますが、あくまでクープランによる一見解としてお読みいただけますと幸いです。

 

画像、テキストの無断使用は固くお断り申し上げます。

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