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18〜19世紀、ムスティエ、及びヴァラージュ焼の歩み

 

フランス南東部プロヴァンス、コートダジュール内陸の山岳地帯に位置するちいさな村ムスティエ=サント=マリー(以下ムスティエ)で代々陶器製造を営んできたクレリシー家の家内制手工業の拡張に端を発し、同地近郊は、18〜19世紀を通してプロヴァンス地域、ひいてはフランスにおける近代ファイアンス産業の中心地の1つとなりました。

17世紀末、1677年頃にマルセイユ、次いで1679年頃にムスティエに、クレリシー家はイタリアから導入された技法である「ファイアンス」の製陶所を開窯しました。その十数年後の1695年頃には、マルセイユとムスティエを結ぶ陸路の中間点に位置し、陶器製造が盛んだった村ヴァラージュにもムスティエ出身の商人が、クレリシー家の血縁者を陶工として雇い、同様にファイアンスの製陶所を開窯します。点と点は、マルセイユ港から各種資材をヴァラージュを経由してムスティエへ陸路で運搬する目的によって、1本の線に繋がっています。

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プロヴァンスの最大都市マルセイユの製陶所は、上位貴族を顧客として市民革命直後の19世紀初期まで稼働し、絢爛な装飾陶器を作りだしました。ムスティエとヴァラージュもまた、最初期の発展と評価は、貴族的な装飾性にありました。とは言え内陸という地理的な条件もあったのでしょう、18世紀半ば〜19世紀初期頃にかけて、顧客層をより広範な階級の人々に徐々に拡げていったと、資料や現存個体から推察できます。

18世紀に入ると、クレリシー家に留まらず、さまざまな陶工がムスティエやヴァラージュの村を訪れてファイアンスの製陶所を開窯。ムスティエには12、ヴァラージュには16の主要な製陶所があったことが知られています。また近隣のタヴェルヌ、サレルヌといった複数の小さな村々にも製陶所が存在しました。引き続き富裕層も一定の顧客として抱えながら、同時に販路拡大と量産化を進め、製陶所間、村間で競合をしながら経営が続けられていきました。

戦争により不足した銀食器の代用品を手がけるなかで育まれたノーブルな感性と様式美を活かした気品に、田舎の素朴さが加わり日常的な実用性にも富んだ、無加飾白釉のシンプルな陶器は、主として、この時代に日常の食器として作られたものです。所謂、現代の(どちらかと言えば主観的な)価値観で「民衆的工芸」として、歴史を踏襲しながらも地域に土着した独自の美しさを私たちが感じる器々です。

他方で、現場における実際を客観的に見れば、時代の流れに応じた量産化による薄利多売への舵取りは、(当時の男性的価値観から見ての)美術的な作品としての質の低下へと繋がりました。貴族のための工芸品は、土産物、或いは市民の嗜好品へと変化していき、磁器や半陶半磁器といった同業多種との競合に税負担増すら重なり、製陶所の経営は芳しいものではなかったようです。鉄道網が発達していくなかで、取り残されてしまった側面もあったでしょう。19世紀にムスティエで作られたファイアンス製の陶器の背面に、当時、市場を席巻していた「テールドフェール製」と刻まれていることもあり、苦心の跡が垣間見えます。革命後の19世紀初頭から、世紀半ばに至るまでに、ムスティエでは次々と製陶所が閉窯していきました。ヴァラージュでは半陶半磁器を導入することで一部が存続しますが、ファイアンスの陶器に関しての状況はムスティエと同様だったようです。

18〜19世紀のムスティエ、ヴァラージュを中心としたプロヴァンスにおける市井の人々に向けたファイアンスの製陶。ほんの100年間程の精力的な活動と変遷。どのようなものとして捉えるかは、立つ視点によって各々異なってくるでしょう。

個人的なことを言えば、理想はその中間地点辺りに見つけたいです。人間が市場経済のなかで、その変化にもがきながらも必死に作る不完全さは愛おしいと感じます。この時代の品々を個別具体に甘い厳いかだけで判断せず、その変遷自体を1つの記録として捉えていきたいと思うところです。

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