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ペクソンヌ、不意の独自性
ペクソンヌ窯。現在の市場で見つかるのは、主にはフェナル・フレール(1857年頃より)ブランドの個体でしょう。特に1870年以降、普仏戦争の影響でサルグミンヌの街からペヌソンヌへと逃れてきた陶工たちが従事したことで、村の製陶業は小規模ながらも確かな発展を遂げ、最盛期を迎えました。
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グリニー、多層的な誘い
リヨンからローヌ川に沿って約20キロ南郊外に位置するアルボラスに1829年に創業した陶器窯は、1837年には近隣のグリニーに第2の窯を開き、その後も様々な変遷を経ながら、1960年代まで作陶を続けました。 ローヌ川のふもとに位置し、良質な水源に恵まれていることに加え、フランス革命後、リヨンからサンテティエンヌへと鉄道が走ったことで製品輸送における利便性を得たことが、窯設立において同地が選ばれた理由でした。
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プロヴァンス民陶の香り、アプト焼
18世紀半ばの勃興以来、アプト、及び近隣カステレの村で地場産業として拡がり、小さくも奥深い独自発展を遂げた陶器、アプト焼。 ノーブルな優雅さを湛え、同時に土地の気候・風土が生んだ大らかさを優しく纏い、全体を調和させているのは「カタチ」の高い精度だと思います。
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心惹かれたアゲートウェアの記録
ウェッジウッドの創始者ジョサイアの兄で、陶芸家のトーマス・ウェッジウッド4世が1730年代に生み出したとされ、当時の英国陶芸の大家トマス・ウィールドンや、前述したジョサイアにより改良と発展が試みられながら、1780年代ごろまでの短期間、初期アゲートウェアの作陶は行われました。
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ブルジョワ的ノーブル、初期パリ窯メゾン・ロクレ
フランス革命期。18世紀末、パリの磁器(=通称パリ窯)、メゾン・ロクレ。 パリ生まれのジャン=バティスト・ロクレ (1726-1810) が、当時のヨーロッパで磁器製造の最先端だったドイツまで赴き知見を広げ、帰巴後にフォンテーヌ・オ・ロワ通りに開いたメゾンです。 所謂「パリ窯」には18世紀末と19世紀以後の大きく分けて2つの時代区分が存在しますが、ロクレ&ルシンガーは、1770年代初頭に、王立窯セーヴルの持っていた磁器製造の特権が緩和されたことで生まれた最初期のパリ窯で、王族の保護下になかった当時としては唯一のパリの私営磁器窯です。セーヴルの影響を受けながらも、18世紀以前ならではの独特な揺らぎある硬質磁器を、より実直に軽やかにロクレ&ルシンガーは作り上げました。
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メネシー、控えめな18世紀的フランスの感性
18世紀中庸、1738〜1765年頃。ルイ15世治世下、シャンティイ、サンクルーと並び、フランス革命前のパリで王侯貴族の心を喜ばせたメネシー・ヴィルロワの軟質磁器。古手の軟質磁器には、主要顧客の嗜好ゆえ、絢爛華美な多彩の器も多いですが、柿右衛門様式による伊万里焼き、或いはドイツ、マイセン磁器の伝統に倣い、少数ながら作陶された藍絵単彩の器が、個人的には、古色と現代的な風通しの良さの塩梅よく、ごく心惹かれます。
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忘れられた19世紀初期の名陶器窯、セーヴル
パリの西部近郊に位置し、セーヌ川に面する閑静な町セーヴル。磁器窯セーヴル焼きで著名な地に、19世紀初期にごく僅かな期間存在した陶器窯セーヴル。セーヴル焼きと直接の関係は見つけられていませんが、フランス革命によりセーヴル焼きの王立磁器窯が破壊されて一時閉窯した直後、1798〜99年に活動を開始したことや、初期の社名において「市民のための白釉陶器のマニュファクチュール – ユペ、ジェロ社 / Manufacture de terre blanche des citoyens Hupais, Gélot et Cie」と、市民の一語を翳していた時期があることを踏まえても、経営における設立地の選定や方針に、フランス革命からの一連の流れがあったことは、容易に想像ができます。
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わからない愉しさと美しさ
マチエールがステップを刻む。えも言われぬ施釉の表情と、全体を構成する優美を整えたモデリング、刻まれた古色。 出自不明。ファイアンスフィーヌの作陶技術を基盤に持ちながら、同時により伝統的なファイアンス陶の要素も取り入れ、けれど目指す先は、やがて確立される新時代の半陶半磁器にある気がする。現代的フランス工芸史観では焦点が定まらない浮遊感を、現代的価値観に即した美意識が統御している。必然なのか、偶然なのか。
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追憶、アンシャンレジーム下の初期ファイアンスフィーヌ
盛者必衰。1700年代半ば〜後期に作陶された初期のファイアンスフィーヌに個人的に感じるのは、権威的でありながらも儚げな美しさです。 1700年代初期のフランスの中上流階級の人々が用いた食器には、主として「ファイアンス製陶器(淡黄色の土の上に白濁した錫釉をかけ完成させた厚手の焼き物)」と、限られた貴族のみが所有することができた超高級な「磁器」「銀器」がありました。
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サマデ、辺境の固有性
サマデ。フランス南西部、ボルドー近郊で1730〜1830年代の約100年間という僅かな期間に存在した小さな村のファイアンス。 18世紀フランスのファイアンス(陶器)において、ヌヴェールやムスティエ、ルーアンといった窯々と比べると、知名度は低く、模写・模倣の要素が強い装飾器や無加飾の白釉器であれば、自分を含めた日本人はもちろん、現地フランス人にも、ムスティエ、或いはヴァラージュ「辺り」と括られ掲示されることが多いのだろうと思います。
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19世紀、北フランス、民衆生活の匂い
19世紀初期の北フランスで、射撃大会のために作られようになったことが発祥と言い伝えられている番号付きの陶製カップ。若い数字から順に大きな寸法で作陶され、大会表彰の際に成績上位者が、順位に即した番号のカップに注がれたワインを飲んだのだそう。 同時にこの種のカップは、ライン川近郊の居酒屋や農場跡地で大量に発見された記録が残っています。大会の成績上位者用としてはかなり大きな番号のカップが存在することからも分かるように、発祥の逸話は1つの説で、実際には個々人のカップの識別が必要となる多様なシーンで用いられたようです。
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フォルジュレゾー、ノルマンディーのファイアンスフィーヌ
フォルジュレゾー。現存個体が元より少数、かつ作陶品の多くが無刻印で窯特定も困難なことから、日本ではまだあまり名前を知られていないのですが、19世紀初期に、良質なファイアンスフィーヌを作陶した陶器窯です。 1797年、窯は1人の英国人によって開かれました。ジョルジュ・ウッド。シャンティイやクレイユの製陶ディレクターを務めた記録も残っている人物です。シャンティイ、クレイユ両窯の経営陣にも英国人が携わっていましたが、この時代のフランス工芸に影響を与えた英国人の強いネットワークが感じられます。
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上質陶器、イタリアにおける一片のカタチ
19世紀中葉、イギリスで生まれた上質陶器クリームウェアの作陶技法は、ファイアンス・フィーヌとして認知度も高いフランスだけでなく、ヨーロッパ大陸を横断し、主権国家が形成せんとしている時代のイタリアにも伝播していました。
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ノルマンディ・ブルターニュ地方、農民のための
ブイィ・ド・サラザン(そば粉のお粥)。19世紀初期頃まで、冷涼でやせた土地でも収穫できるそばの実を挽いた粉から作るお粥は、素朴な家庭料理として、ノルマンディやブルターニュ地方の土地の農民たちの主食の1つであり、同時に希少な栄養源にもなっていました。 19世紀の鉄道発達により飼料確保が容易になったことで、改良・発展されていったそば粉のクレープ、ガレット・ブルトンヌは広く知られていますが、ブイィ・ド・サラザンは現地の人々にとっても、今では殆ど馴染みがない存在なのだそう。写真は、そんなかつての農家料理を食すために作られた真鍮スプーン。
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17世紀フランス、ヴェール・ド・フジェール
儚さと隣り合わせの危うい美しさには、ワインを愉しむというかつての朗らかな日常が内包されている。このグラスにワインが注がれていたこと。想像するだけで心踊ります。17世紀フランス、当時の気配をそのままのかたちで残した、素晴らしい状態のヴェール・ド・フジェール(羊歯ガラス)です。
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初期フランケンタール、古物は文脈を持ち、歴史を纏う
作陶から経営に到るまで万事に影響していた独仏の複雑な国境線争い。古物は文脈を持ち、歴史を纏っているということを染み染みと感じます。1755年頃、ドイツ、フランケンタール磁器窯で作られた古手硬質磁器の水差し。
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漂う修道院の日常
まっさらな白に縫い込まれた、ちいさな刺繍十字。 修道院で修練者としての生活を始めるにあたり、各自が持参したとされるリネン布です。製作経緯から採寸や素材感もまちまちで、そんなところに、かつて生きた名もなき人々の物語の集積を感じます。 使い込まれ風合いはしなやかに。修道院にまつわる物は多々存在しますが、修道士、修道女の暮らしを言葉通り肌で感じられる、そんな静かな一品。
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50-70年代初期バカラについての雑感
オールドバカラ、そんなふうにひと括りに記号化されることも多いですが、実際には年代ごとに各々の美質や纏う気配があります。50-70年代初期頃のバカラ。量産と流通(加えてコンプライアンス強化)という世界的な潮流が同社にも押し寄せ、作りの簡略化が少しづつ行われていたことが個々のプロダクトを見ると感じる時代でもあるのですが、そうしたなかでモダンデザインの流れを汲んだ無加飾のバカラテーブルウェアについてだけは、個人的にごく心惹かれます。
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疫病下、2020年の暮れに寄せて
疫病によるフランスへの渡航制限の継続は、今のクープランにさまざまな影響を与えていますが、そのなかでもっとも大きなものは、仕入れ金額の落ち込みというような数値的なことではなく、これまで仕入れをするにおいて必ず伴っていた店主である自分の「身体性」と「他者と感応し合うなかで醸成される精神性」の欠如なのだ、と改めて感じています。
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初期近代英国陶器、奥深さの一端
近代英国陶器史の礎。良質な陶器産地スタッフォードシャーで、かのウェジウッドを筆頭に、18世紀半ばから19世紀初頭にかけて作陶された上質陶器。 その奥深さの一端。クープランとの交差点の記録。
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フランスの古物
フランスの古物は、クープランを立ちあげる始点となります。フランスで、或いは古物でなくてよかったのかもしれないという考えも、一方で未だにもっていますが、縁あり、若い頃にフランスの音楽に聴き馴染み、文学を読み学んだなかで、今は、彼らが見てきた世界の風景の欠片とも言える古物に、文化、歴史を通じて物事の在りかたの深層に近づいてみたいという想いを託しています。
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古物を扱う理由 (わけ)
1930年代、古い家族写真の束の中から、名もなき子供たちの暮らしの一片。 それは戦間期と呼ばれる時代。大恐慌とファシズムの台頭に見舞われていたヨーロッパは、やがて第二次世界大戦へと突入していくこととなる。彼らにどんな未来が待ち受けているのか、それは僕には分からない。 けれどシャッターが切られたこの一瞬には、確かな幸せが詰まっている。
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女性のための服飾小物、古き文化のかけら
18世紀末から19世紀初頭ごろ、市民革命を経た第一帝政期 (ナポレオン1世治世期) より、上流階級の女性の衣服において、王政期のパニエ入りの大きなドレスが否定され、肌着を省略したよりタイトなシュミーズ・ドレスが流行しました。それにより腰に巻きつけてドレスの内側に隠していた "ポケット" がなくなったため、貴重品入れを手に提げる必要性が生まれ、「レティキュール (Réticule)」と呼ばれることになる、小さなメッシュバッグが女性のファッションとして取り入れられるようになりました。
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エルメス銀器についてのささやかな考察
品のあるハンドルデザインだけでなく、スプーンのつぼやフォークの爪といった細部にも、クラシックスタイルをベースに細やかなニュアンスが加えられている。 クープランとして心惹かれた、美しいプロポーションのエルメスの銀カトラリー。調べてみたところそれは、ルイ・ラヴィネとシャルル・ダンフェルなる2人の人物が19世紀末にパリに創業した、ラヴィネ・ダンフェルというオルフェーヴルリー (Orfèvrerie = 銀細工工房) で作り出されたものであることがわかりました。
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1870年代、ルードヴィヒ・ロブマイヤーの私用グラス
瑞々しいカリクリスタル。 最高水準の技術力で仕上げられたアシッドエッチングとラウンドカットの繊細な連なり。 皇室御用達としてハプスブルク家からも愛されたウィーンのガラス工房ロブマイヤーで、2代目ルードヴィヒ・ロブマイヤーが、グラヴィールのデザインからモデリングまで手がけ生まれた、氏の私用アペリティフ・グラスです。推定1870年頃成形。
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エナメル彩色のロンウィーオクトゴナル
質の高い低温焼成のファイアンスフィーヌ陶器に、上品なエナメル手彩色が施された、1800年代半ばのロンウィー窯作陶のオクトゴナルプレート。 今でも「ロンウィー エナメル (Emaux de Longwy)」の名で知られる、エナメル陶器 (七宝焼き) で有名な土地、ロンウィー。その名声が広く知れ渡ることになったのは、1870年以降のことですが、こちらの器は1830〜1860年代頃、窯がエナメル彩色の技術開発に成功し、独自の作陶史を歩み始めたごく初期の時代の一品です。
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ファイアンスフィーヌ、古手のオクトゴナル皿
1800年代初期頃を主としたごくわずかな時代に作陶されたファイアンスフィーヌの古手のオクトゴナル皿は、多くの古物好きの心を掴んで離さない魅力ある存在です。 比較的作陶数の多かったクレイユ、モントローといった窯だけでなく、あるときは独自に、あるときは模倣をし合いながら(例えば窯の経営者の転籍や、陶工の独立が、製法の伝播・変容の一因でした)、フランス各地で行われた相当数の作陶。 華美で貴族的な佇まいがありながらも、上品で抑制されたモデリング。絵付けや銅板転写等による柄のないシンプルなものであっても、陶土やリムデザインから窯・年代毎の個性が感じられる器は、そこに時を経て生まれた風合いが加わり、各々がたった1つの存在となります。
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FAIENCERIE FILE No.1:Choisy le Roi
18〜19世紀にかけてフランスに勃興した大小様々な陶磁器窯。ごく有名な場合を除けば日本語の資料も乏しく、普段はなかなか詳細に語られることの少ない、そんな窯の出自や生産背景をまとめ、クープランのサイトにアーカイブ化する試みをしてみようと思います。初回はパリ近郊で19世紀に栄えた「ショワジー ル ロワ」のささやかな年代記です。
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パブロ・ピカソが愛した器
今では生産をされていないファイアンス陶器や半陶半磁器のオクトゴナルプレート。19世紀末から20世紀にかけて生きた芸術家、パブロ・ピカソが愛したことで有名な器です。 と聞くだけで、自分なんかは器の持つ魅力がさらに増して見えてしまったりします。なんだか浅はかだなぁなんて思ったりもするのですが、自分が暮らしに取り入れられるようなアンティークを紹介するのは、そんなエピソードに堪らなくロマンを感じるからです。
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Brûlot / ブリュロ
Brûlot / ブリュロ。初級フランス語話者の自分には、 "r" と "l" が続いて現われて思わず噛まずにはいられない独特な響きを持つその器は、フランスのアンティークならではのモノって何だろうと考えたときに、真っ先に思い浮かぶ器です。 アンティークの器には使う愉しみから、眺める愉しみまでさまざまにありますが、ブリュロは、なんだか分からないけど手元に置いておきたい、そういうふうに思わせるアンティークならではの不思議な吸引力を持っています
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『Provence Noire』と作者の魅力的な人物像
1950年から構想が練られ、1955年に発刊された作品『Provence Noire』。 詩人、彫刻家、画家であったアンドレ・ヴェルデが文章を綴り、サン・ポール・ドゥ・ヴァンスの La Colombe d’or というホテルでヴェルデが出会った写真家、ジル・エアーマンがプロヴァンス地方の町や自然、人々を撮影した1冊で、本のカバーは、ピカソが描いたプロヴァンス地方の風景のスケッチが飾られています。 作品全体が雰囲気を纏っている大好きな1冊ですが、実は著者2人の人物については日本語の情報が多くなく、ここに少しご紹介させていただこうかなと思います。
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